1昭和50年05月25日 朝の御理解
御理解 第40節
「重いものを負うて居るか、かついでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ家業を勤め勤めするがよい。」
確かに信心をさせて貰うと言う事は、重いものを担いでいる訳でないけれども、何とはなしに信心は重荷になっておると云う。信心が重荷になってはならぬ。信心が荷物になってはならぬ、なら信心が億劫になってはならぬ。信心は言わば楽じゃと仰る。信心は楽じ言うのは楽しい物じゃと言う事であります。言うなら我が子、荷にならずといった様な事を申しますね。自分の子供を負んぶしておるそれは荷にならない。
信心を愈々自分自身が助かって行く。自分自身が助かって行くと言う事は、心に不安があり心配があり、又は焦燥と言う様な事でなくて、信心をさせて頂けば心が助かるね、ですから楽です心が助かるから楽です。あの事が気になりこの事が心配になって、それこそ寝た間も忘れられないと言う様な時代から、信心をさせて頂く様になったら、そう言う取り越し苦労や心配が段々なくなる。だから信心は楽じゃと。だから如何にその信心と言う事がです、信心でなからねばならんかと言う事が解ります。
信心とは信心する心です。例えばどんな悩みごと心配ごとでも、お参りをするお取り次ぎを頂く、そして御理解を頂いて帰る心が楽になる。ここん所に信心が楽じゃと言う事は、まあ自分の都合の良か時だけ参れば良い、いいとですよ信心とは。と言った様な物ではないと。そりゃもうこの方の業は家業の例えば、三十九節に此方の行は水や火の行ではない家業の業と仰っとる。家業の業と言われるのは、家で一生懸命仕事をさせて頂くと言う事がもう行だから。
自分に都合の良い暇のある、そう言う時を見計らって、例えばお参りでもさして貰う、信心は見易いもんであり、信心は楽なもんだと言うのではない。信心は矢張りお参りをした上にもお参りをし、又はお話を頂いた上にも頂かして貰う所から、自分自身の心が楽になる。解らして頂く事が、段々楽しうなって来る。不安であった物が不安でなくなる。心配であった物が心配でなくなって来るから信心は楽じゃと言う。
それは何故かと言うと、信心愈々神様を信ずる力が出来て来るから、お取り次ぎの働き、お取り次ぎを頂く事によって、その働きと云う物がはっきりとお取り次ぎを頂いた事、頂かない事の違いを判らせて頂くから、惟は皆さんが体験なさる事です。それは本当に何事でも、お取り次ぎを頂いとかにゃ駄目だ。お取り次ぎの働きと言う物が、こんな物であるかと言う風に皆さんが、お取り次ぎを頂く事に依って、体験を積んでおいでられます様に。それが愈々それを信じられる、それが信心なのです。
金光様のご信心は、お取り次ぎを頂く事に依って神様を信ずる力、お取り次ぎの働きを信ずる力、それが出来て参りますから楽なんです。まあ例えて言うなら信心しよる者は、何にも悩みも難儀もないかと言うと有ります。ね。それは様々な深刻な問題が御座います。それをまぁ斤数で思いますと、例えならばねそれこそ千斤も万斤もと思う様な苦しい事があるかも知れません。所が信心所謂信ずる力と言う物がです、それこそ今までは百斤の物でも、やっとかっとであった者が千斤、万斤の者を持ってもです。
平気でそれが持てれる様になって来るから楽なんです。難儀が無くなると言うのじゃないです。昨日福岡からお参りをして来た方が、月の内何回か位参って見えます。もう大変様々な難儀な問題からお参りして来る様になりました。昨日も参って参りまして、今朝がたからまぁ気持ちの悪いお夢を頂いた、そう言うので昨日参って来た。兎に角人を抱き回るだろうかと思う様な大蛇、蛇ですね大蛇大きい蛇を大蛇と云う。
それがね頭も見えない尻尾も見えない、けれども胴だけが見えとる大きな。その大蛇の胴をですね、撫で撫でしておる所を頂いたとこう言うのです。あぁ目が覚めてから是は御神夢と思う、もうはっきりそれを気持ちの悪いお夢を頂いた、どう言う事だろうかと言うわけです。ここでは色々あの蛇のお知らせを頂くと言う事を、廻りのお知らせと頂いとります。それこそ其の方の家には、大蛇の様な大きな廻りが有ると言う事です。惟は皆さんが感じられる難儀と言うものね、困ったと言った様な事。
痛い思いをすると言う様な事、損をすると言った様な事、是は皆んな廻りのせいなんです。ね。例えば商売する人がなら損をしたと言うてもです、損をしなければならない元があるのです。それをならあの人が引っ掛けたね、から例えばと申したと言う事も実ですけども、その人に引っ掛けられる元があるのです。それをお道では廻りと言う。そう言う廻りが廻り巡って難儀と言う形に現れて来るのです。
ですから皆んながそう言う難儀な事から救われたい、助かりたいと言うのが言わば入信であり、信心初めの時にゃ皆んな大体がそうです。難儀な問題人間の知恵力ではどうにも出来ん。神様になっとお縋りしなければと言うのが、殆どの方の入信の言わば動機なんです。そして段々解る事が解らせて貰ろうてです、言うならば大きな大蛇をこうして撫で撫でしておると言うのですから、言うならばその廻りと仲良うする信心。
これは二十数年前に頂いた事ですけれども、廻りと仲良うする信心、廻りから外れたい廻りのお取り払いを頂きたい、難儀から言うならげだつしたい解放されたい。これは皆んな願う所でありますけれども、信心がだんだ解って来るとその難儀その物の、言わば本質とでも申しましょうか、ね。難儀の本質とでも申しましょうか、それが廻りの元であると言う事が判って来ればわかって来る程です、それこそ、やれ痛や今御かげをと言う心が生まれて来るのです。
痛い思いをする損な思いをする、苦しい思いをする、その苦しい思いをすればする程、やれ痛や今みかげを、今廻りのお取り払いを頂いとると思うと有り難い。又その廻りがあればこそ、その難儀があればこそ信心が出けるのですから、廻り様のおかげで信心が出けますと言う事になるのです。どうですかもう本当に、例えばそれが苦しい事であってもです、解る事が解らして頂くとお礼を申し上げる様な心が生まれて来るとするならば、もうそれは苦しみじゃないです、楽しいものです楽なものです。
所謂有り難いものなんです。そこ迄行った時、私くしは信心は楽じゃと言う事が言えると思うですね、信心は楽なんです。昨日は北野の秋山さんの所の、毎年もう二十数年頂いとられます、年に一回の謝恩祭宅祭りであります。五月二十四日は秋山家の謝恩祭、沢山の人が集まって、沢山な言うなら物入りがあります。お金も随分かかりましょう、あれだけ沢山のお供えもさせて貰う。それこそ麗しいお祭り。
しかも親戚子供達も皆集まって来る。毎年の事ですけれども、宮崎の方へ縁に付いとります娘も飛行機でお祭りだけの為だけに帰って来る。もちろんこの近所に居ります、福岡あたりの娘達も皆んなもうう家族中で宅祭りにはお参りをしておる。とにかく秋山家の謝恩祭ですから、秋山家に繋る人達が皆んなね、それぞれにお供え等を持ち寄って、あのお祭りが出来るのです。
去年よりも今年と言う様に、又今年よりも来年と言う様に、段々例えばお祭りの形は同んなじであっても、その内容と言うものは、愈々充実した有り難さと云う物がなからなければならない。一年を振り返って見る時におかげを頂いたものであると言う事。おかげで家族が円満になる、おかげで病気一つしない、と言う例えば事だけではなくて、昨日はあちらは改式をしとりますから、霊様がお祀りして御座います。
神様のお礼を終わらして貰うて、霊様のお礼をさせて貰うんですけれども、もう言うなら霊様が大変このお祭を、宅の感謝祭謝恩祭をこう待ち望んでおられる様な感じ、大変なお喜びの様子を見せて下さった。して見ると家族の者の信心と言う事がです、自分に気が付かんなりに、言うならば巡りのお取り払いを頂いておると言うか、言うならば家の根と言われる御先祖までが生々として助かって来ておる。昨日だからお祭が終わって二階にお礼に出て来ましたから、家族の方達に申しました。
この様に根が言うならば家の根は先祖である、私共の肉体の根は心である。私達の命の根はお米である、お米がなからなければ命を保つ事は出来ない。私共の幸不幸の元と言うのは私共の心次第である。家が繁昌する愈々子孫繁盛、家繁昌のおかげを頂くと言う事は家の根である所の先祖である。その先祖の御霊がです、言うなら例えば肥料を吸収する所の力とでも申しましょうか、根が愈々生々として来る、上に生々とした葉が繁る、生々とした花が咲く、生々とした稔りが出来る筈なのですからね。
ここの所を一つ本気で頂き止めねばいけないねと、まぁ言ってお話した事で御座います。それが知らず知らずの内に、そう言うおかげを頂いて、初めの信心の無かった時代はです、何か矢張り内輪がもめたり、争いが絶えなかったりするけれども、段々自分本位からね、言うならば神様本位とでも申しましょうか。人が悪いのじゃない自分自身の手許の所を見極める様になって来る。言うならば神様を中心にした、教えを中心にした生き方が、出来るる様にになって参りますから、愈々家庭は円満になって来る。
心が穏やかに成って来る豊かになって来る、だから健康も勿論頂ける、そう言う例えばおかげの事を思うたら、年に一回の謝恩のお祭を、愈々唯有り難う思うとりますと言うだけではなくて、そう言う形にでも現わさなければ居られないのが、謝恩祭です。ね。皆さんも御承知の様に一家を挙げて、あの様に熱心に信心しますから、言うならば自分達が助かってるだけではなくて、先祖の霊達までが段々生々と助かってこられる事になって来た。愈々信心は有り難いもの、楽しいものになって来た。
信心が例えばそうですね、今合楽で謝恩祭をなさる方達のほら又宅祭が巡って来た、又沢山の金が要ると言う様に思うならば、信心が重荷になっておるのである。信心はね例えば重い物を持っておれば苦しいがと言う様に。もう例えば一月位前からです、是はどこの家でもそうですけれども、もう本気で何月何日の宅祭りには万事、有り難い一杯のお祭りが出来ます様に、親戚子供達も皆んな、万事の御都合お繰り合わせを頂いて、御参拝が出来ます様にもう一ヶ月もその前からずうっと祈りに祈り祈り込んである。
万事がお繰り合わせを頂く、思い掛け亡く金銭のお繰り合わせも頂く、思い掛けないお供えも集まって来る。もうそれが有り難うして楽しいものになって来る。もう例えば宅祭りをなさる方達の、あの宅祭りの様子を見ておると、もう本当に一年中の一番有り難い思いをそこに結集するのですから、楽しうして有り難うして堪えんと言う事。しかもあれだけの沢山の何十人の人達に、後の御直会だけでも沢山の金が掛かる事だろう。それがもう楽しうして堪えんと言うのであるから、信心は楽でしょうが。
神様を信ずる力ね。家業を勤め勤めするが良い、此処ん所も良く問題になる所ですけれども、金光様の信心はもう家業の業だから、お参りせんでも良いと言う事ではなくて、家業の業が行、家業の行として頂ける事の為に、言うならば、信心が楽なもの、お参りは楽しいものになって来なければ、家業の業と言う事にゃなって参りません。唯お参りはせんでも、家業の業だからと言う物は、もう欲得でお参りが出来んのであり、欲得で家業の行と口だけ言うても、それが本当の行になる筈がない。
信心が楽しい有り難いものになり、その楽しい有り難いと言うその心が、めいめいの言うならば職場、又は働きの現場に於いてです、その事がこよない有り難い尊いものになって来る。そして始めて家業の業と言う事になるのです。お道の信心な楽なもんですよ、兎に角、自分の都合の良か時だけ参りやよか、もう家業の業が行と仰るから、もう一生懸命家で働いてと言うて、忙しい事にかまけて、お参りが出来ない様な、例えば家業の業が行になる筈がないです。
仕事の忙しい事にかまけてしまう様な信心では、家業の業にはなりません。家業の行は何処迄も楽しい有り難いもの為にはです、信心は楽じゃと言われる信心が楽じゃと言う所まで、信心を進めて行かなければいけません、そして初めて楽だと言う事が言えるのです。毎日のお参りの時間も、毎日の言うならそれぞれのお供えも、お初穂もお参りすりゃこげんお供えもせんならんお参りすりゃ時間もいる。
もうこの方の信心はもうお参りとかお供えじゃない、家業の業ば一生懸命すりゃそれを行として受けて下さるのだから、と言う様な誤った考え方をしておる人が有りますけれども、それは欲得で家業をしておるのですから行になる筈がありません。その仕事にかまけておるのですから、それが言うならばおかげに繋る筈がありません。例えよしそこに例えば普通で言うならば。
まぁ本当に難儀な事であろうと思う様な難儀な問題を抱えておりましても、力が出来ますからその難儀な問題をね、もうそれこそ楽しう有り難うお礼を申して、持っておると言う事になるのです。言うなら大きな大蛇を撫で撫でしておると言う事は、そう言う難儀な問題のおかげでと言うて、お礼を言う心があるのですから、こんな有り難い言うならば重荷になっていないと言う事です。
信心が重荷になってはなりません。今日は特に信心は楽じゃと言う所を聞いて頂いておる。それは信心は楽しいものでなからなければならない。楽と言うのは只気楽と言うかね、例えば朝の早くからお参りするよりも、四時か五時頃から起きてお参りして来るよりも、言わば七時までも八時までも寝とってからね、そしてお参りするならその方が楽です。だからそう言う意味での楽じゃないです。
信心が楽しいものになって来るから。思わず時間になると目が覚める、心が弾んで来る、それがお参りする姿形にならせて頂く様な信心から、私は本当の意味での家業の業と、行として受けて下さる様な、私くしは日常生活が出来ると思うのです。いよいよ信心を楽しいもの迄、楽しいと言う有り難いと言う所まで、高めて行かなければいけないと思うですね。
どうぞ。